「反事実的思考」―不思議な心のはたらき
最近の研究で、人の満足感は年収の絶対額とはあまり関係なく、相対的なもの、すなわち誰と比較するかで決まることが分かってきた。要するに、「比較対象依存型」の心理メカニズムだ。オリンピックの表彰台でなぜか銅メダリストの方が銀メダリストよりうれしそうなのも、そのためだとか… マーケティングにも応用のききそうな研究成果だ。
朝9時の新幹線に乗ろうとして駅の階段を駆け上ったが、ワンタッチの差。鼻先でドアが閉まってしまう。その悔しさは、30分遅れて間に合わなかったときより、なぜかはるかに大きい。僅差で間に合わなかったときの方が、「もし、乗れていたら…」という気持ちが強く働くからだ。
こうした人間の心理を、「counterfactual thinking」(反事実的思考)と呼ぶ。「もし○○だったら」とか「もう少しで○○だったのに」といった具合に、事実に反することにこだわるところから命名された心理メカニズムだが、最近の研究の結果、実は、これが人の「幸せ」までも支配する曲者であることが明らかになってきた。
この摩訶不思議な心のはたらきに関し、英国の名門モーズレイ病院の臨床医、Dr. Raj PersaudがFT紙に興味深い寄稿(“Winning mental ways”)をしている。Dr. Raj Persaudといえば、「現代最高の精神科医」と評されるほどの碩学で、『THE MOTIVATED MIND』をはじめ著作も多い。その彼によれば、この分野の研究が盛んになったきっかけは、今から13年前のオリンピックとか。
1992年のバルセロナ・オリンピックが、それまでのオリンピック競技と特に変わっていたというわけでは決してない。ただ、どの種目でも、なぜか銀メダリストの方が銅メダリストより浮かない顔をしていることに着目した人がいた。当時、まだコーネル大学大学院に在籍中のビクトリア・メドベック(現在はノースウェスタン大学ケロッグ校の教授)ら3名の若手心理学者だ。
さっそくNBCからバルセロナ・オリンピックの全競技の映像を取り寄せた彼らは、コーネル大学の学部生に協力を仰いだ。ビデオを見ながら、競技直後と授賞式での選手の表情を観察し、比較するよう頼んだのである。最もハッピーな顔をしているのが金メダリストであったのは当然だが、銅メダリストに勝っているはずの銀メダリストがなぜか銅メダリストより不満げな表情をしていることが確認できた。
銀メダリストは「もう少しで金メダルを手にできたのに」と悔しがり、銅メダリストは「とにかくメダルがとれてよかった」と満足する傾向が強いからだ。
“When less is more”
1995年に発表された“When less is more: Counterfactual thinking among Olympic medalists”は、こうした研究成果をまとめたものである。
この論文で、メドベックらは、選手の感情はその選手が自分の状況を「何と比較するかに大きく左右される」ことを明らかにした。これに刺激されて、心理学者だけでなく、論理学、言語学、社会学、経済学、ゲーム理論など各分野で反事実的思考の研究が進んだ。
その結果、現在では、反事実的思考が「比較対象依存的」メカニズムであるという点は、ほぼ共通した認識のようだ。すなわち「誰と比較するか」がすべての鍵を握っているということになる。所得水準に関する経済学者らの研究でも、人の満足感は年収の絶対額とはあまり関係なく、相対的なもの、すなわち誰と比較するか、が決定要因であることが分かってきた。
これに関し、英国の心理学者、ダニエル・ネトルが、実にうまいことを言っている。「裕福とは、自分の収入が、妻の妹の亭主より100ポンド多いこと」。また、Dr. Raj Persaudは、こうした比較対象に最もなりやすいグループ(reference group)として、他に同窓会、隣近所、職場の同僚を挙げている。
とどのつまり、「ものは考えよう」ということか。
冒頭の新幹線の例で言えば、たしかに、階段を二段飛びで駆け上っていれば間に合ったかもしれない。が、その代償として、新幹線に乗った直後に心臓発作で倒れることも十分あり得る。そう考えれば、鼻先でドアが閉まったことはむしろ喜ぶべきことなのであろう。
October 26, 2005 | Permalink
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