「このブログでも明日からは書きためたちょい古いネタを何回かアップしよう」と予告したが、今日はまずその第一弾。題して、「鳥の声が聞こえたか…」
「鳥の声が聞こえたか…」 ― 柳生新陰流の太祖石舟斉の言葉だ。「是非にでも手合わせを」… 武蔵のそんな願いに石舟斉はついに立ち会いに応じてくれるが、新陰流「無刀取」で武蔵の剣は封じ込まれてしまう。呆然とする武蔵に石舟斉は言う。
「竹刀を構えているときに鳥の声が聞こえたか。勝負の最中に風の音を聞け… 風の音、鳥の声、水の味。それを知らずして、ただ剣の腕だけ磨いても無意味だぞ」 さすが剣聖、含蓄のある言葉である。
実は数年前、同じ体験をしたことがある。鳥の声、そして犬の声が聞こえたのだ。中国武術の伝説的達人として知られる瀬戸師範のもとで呉式太極拳を習ったときのことだ。今日では太極拳といえば健康法の一つ程度にしか思われていないが、元来は「柔を以て剛に克つ」れっきとした武術である。
その太極拳を始めて2、3年経った頃、いつものように、ビルの6階にある道場で、「構え」の姿勢をしていたときだ。気を丹田に沈め、含胸抜背の姿勢で肩を落とし、すべての力を抜いて立つ。目は半眼にし、気をゆっくりと身体にめぐらす。立禅ともいわれる姿勢だ。で、この立禅をはじめて5分ほど経った頃だろうか、不思議な感覚に襲われた。“襲われた”といってもいやな感覚ではない。むしろ、自分を覆っていたベールが剥がれたような快感である。窓の外から聞こえていたクルマの騒音がすっーと遠のき、それまで全然気づかなかった鳥のさえずりや、遠くの犬の鳴き声が鮮明に聞こえてきたのだ。
同じことは仕事でも、そして普段の人間関係にも言えるのではないだろうか。肩に力を入れ、身構える。そうやって力んでいる限り、周囲のことが目に入らず、相手のことも見えてこない。
ここまで書いてきて、ふと、あるラグビー部の監督の言葉を思い出した。「まず、楽しむことだ。楽しめば、肩の力がとれ、肩の力がとれれば自然と実力が発揮できるからだ」
いつの時代にも、石舟斉はいるものである。
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