北欧神話や古代ケルトの時代から、樫の巨木は神聖視されてきた。樫の木のもとで儀式が行われ、集会が開かれた。樫の木のもとに集う習慣はいまだに欧米で根強く、Meet me under the oak tree. とかLet’s meet under the oak tree. といった表現をよく耳にする。教会の集会だけでない。地域住民が子供連れで集まるピクニック風のものから環境保護の会合に至るまで、その種類はさまざまだ。あの「大きな栗の木の下で♪」にしても、元はといえば、“Under the Spreading Chestnut Tree” というアメリカの民謡だ。
昔、ブンヤだった頃、本社で研修を受けるため、何ヶ月かニューヨークに滞在したことがある。そのときの定宿がミッドタウンにあったビルトモア・ホテル(Biltmore Hotel)。「あった」と言ったのは、このホテル、1981年に取り壊されてしまったからだ。
ビルトモアは、古きよき時代がそのままそこに息づいている、いかにも趣のある老舗ホテルだ。歴史の好きな人なら、あの「ビルトモア宣言」が発表されたホテルと言った方がはやいかもしれない。米文学の愛好者にとっては、ゼルダとF.スコット・フィッツジェラルドがハネムーンに選んだホテルだし、J.D.サリンジャー作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、コールフィールドもこのビルトモアを訪れている。
途中、5番街を横切って西に3ブロックほど歩けば、NYT本社ビルに着く。そんな便利な場所にこのホテルはあった。そのビルトモアからの出勤初日、外報部の連中がこのホテルにまつわる有名なキャッチフレーズを教えてくれた。
“Meet me under the clock.”
ニューヨーカーだけでなく、当時のアメリカ人なら誰でも、この“clock”がビルトモアの「掛け時計」であることを知っていた。待ち合わせの場所を言う際、Meet me under the clock.というのが粋とされ、猫も杓子もこの台詞を口にした。かつては、ビルトモアの掛け時計の下は彼氏を待つ若い女性たちであふれ、宿泊客が通り抜けるのもひと苦労だったとか。
それを知ってからというもの、仕事を終えてこのホテルに帰るのが楽しみとなった。ロビーにあるブロンズ製の掛け時計に目をやってから、その奥にあるメインバーに腰掛け、ピアノの生演奏を聴きながら、ワイルドターキーをストレートで傾ける。それが日課となった。
ただ残念ながら、このしゃれた台詞を自分自身が使う機会はついに訪れなかった。
コメント