2006/11/03

Valery Gergiev & Wolfgang Sawallisch

061103_orch_2 「いつも舞台に上がるときは緊張するのに、今度はワクワクしながら舞台に上がることができた」(ティンパニー・小山理恵子)。「引きずり込まれるような体験ができてよかった」(第一バイオリン・小林佳奈)。今、世界で最も注目される指揮者、ワレリー・ゲルギエフの指揮の下、「ペトルーシカ」(ストラヴィンスキー作曲)の演奏を終えた直後の感想だ。二人とも二十歳前後だろうか、額に汗がにじんでいる。

「受け継がれる情熱の響き」というドキュメンタリー番組を見ていたときのことだ。

今年7月、札幌で行われた「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)」で、世界中から集まった音楽家の卵120人が、一つのハーモニーを作り上げる過程を追った番組だ。オーディションで選ばれただけあって、一人一人はそれなりの腕をもっているが、しょせん「卵」は「卵」だ。なかには、オーケストラはこれが初めてという者もいる。表現力は未熟だし、全員が一丸となって感動を呼ぶ演奏をする域に達していない。

061103_valery_1 それを、4週間かけて一流の音楽家たちが特訓するわけだが、圧巻は本番前日のゲルギエフ自身によるリハーサルだ。たった一回のリハーサルだというのに、奇跡が起きる。120人が奏でる音が一つの「響き」となる。「音」から「音楽」へ、そして「感動」へと変身するのだ。

そんな奇跡を自分も体験したことがある。

*     *     *

今から40年以上前のことだ。中学生の頃だったと思う。当時、所属していた「朝日ジュニアオーケストラ*の合宿が箱根であった。小学生から高校生を中心とした子供たちのオーケストラだ。だから、日比谷公会堂や上野の文化会館での演奏経験があるとはいえ、そのレベルたるや推して知るべしだ。

* 朝日新聞社が全国に展開したこのジュニアオーケストラの支部、「朝日ジュニアオーケストラ横浜教室」が「神奈川県青少年オーケストラ」として発足したのが1963年だから、ひょっとしたら、この合宿は「神奈川県青少年オーケストラ」に名を変えた頃だったかもしれない。

061103_tact さて、その年の夏季合宿に特別ゲストとして招かれたのが、ウォルフガング・サヴァリッシュ。N響の名誉指揮者として日本でもよく知られている巨匠だ。屋外にしつらえた指揮台に彼が上がり、タクトを手にした。曲は、ベートーベンの交響曲第5番か、モーツアルトの交響曲第35番「ハフナー」のいずれかだったと思う。それからの1時間は…いや2時間かもしれないが、まさに奇跡の連続であった。

信じられない響きが、ハーモニーの渦が湧き上がり、広がりはじめたのだ。

「ウソ!自分たちのオーケストラがこんな音を出せるなんて!」。子供ながらにも、自分たちの力量は自分たちが一番よく知っている(と思っていた)。だから、それが自分たちには絶対に出せない音であり、響きであることは明らかだった。なのに、それは厳然として響きわたり、周りの木々を揺るがしている。

脊髄に電流が走った。

本人すら気づかない潜在能力を一人一人から引き出し、それを響きへ、感動へとまとめ上げる。それが名指揮者なのだ。半世紀近く経った今日でも、あのときの不思議な興奮は鮮やかに蘇ってくる。

*     *     *

そこにはおそらく、経営者やリーダーのひとつの理想形がある。箱根でのあの貴重な体験を生かせていないどころか、そうした理想形にあまりに程遠い自分をみるにつけ愕然とする。果たして自分には、「サヴァリッシュ先生、ありがとう」と言える日が来るのだろうか。

2006/10/02

I see ...

9月28日のブログで、「謙虚さはまた、コミュニケーションをなりわい生業にする者にとって不可欠の姿勢だ」と述べ、それを物語るエピソードを今度紹介しようと約束した。「気違い坊主」の話と同様、このエピソードも三十数年前にタイムスリップする。

当時、New York Timesで新進気鋭のフィーチャー・ライターとして将来を嘱望されていた記者がいた。「フィーチャー・ライター」とは読み物記事を書くライターのことだ。名前をJames P. Sterba、略してJim Sterbaという。1970年代のある時期、彼と仕事をしたことがある。

アメリカの職場では、アルバイトの大学生が社長をファーストネームで呼ぶことも珍しくない。まして同僚同士なら、例外なしにファーストネームで呼び合う。だが、例外というのはどこにでもある。Jim Sterbaの場合がそうだ。彼は私に「Sterbaと呼んでくれ」と言った。もちろん「Mr.」抜きでだが…

デトロイト生まれの生粋のアメリカ人だが、その苗字からはスラブ系の香りが漂ってくる。どこにでもある「Jim」より、自分のルーツを示す「Sterba」の方を大切にしたい。おそらく、そんな思いがあったのだろう。ちなみに、その発音も独特で、「スターバ」より「スターパ」に近い。厳密には「バ」と「パ」の中間の響きだ。

2 Sterbaとはペアを組んで日本各地を回った。写真は、松坂牛の取材のあと、伊賀まで足を伸ばし、忍者の町を取材したときのものだ。当時、駆け出しのフィーチャー・ライターであった私は、一流と目されるフィーチャー・ライターが書いたものをむさぼるように読んでいた。だから言えるのだが、Sterbaの右に出るフィーチャー・ライターはおそらくいないであろう。文体がすばらしいのはもちろん、人間描写がみずみずしい。取材された人たちの言葉がSterbaの記事の中では、不思議なほど息づいているのである。

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2006/09/28

Simply put

村上ファンドで世間を騒がせた村上世彰氏。子供の頃から頭の回転が速く、口が達者だったらしい。話し方も論理的で、大人びていたとか。もう2~3ヶ月も前のことだが、その村上世彰に関するテレビの特番をみていたら、小学校時代の同級生がこんなことを言っていた。

「『要するにやな―』が口癖だった」。英語だと、さしずめ“Simply put”といったところか。

小学生で「要するに」が口癖というのはたしかに珍しいが、若者と話をすると、「て言うか―」に次いでよく耳にするフレーズだ。とりたてて目くじらを立てるまでのこともないが、耳障りな日本語ではある。共に、己の利発さを暗に誇示し、相手より優位に立とうとする「こざかしい」心理が働いているケースが多いからだ。

すなわち、「要するに」は、その話題について自分はちゃんと把握しているとの意思表示だし、「て言うか―」は、お前より自分の方がよく理解しているんだぞと言うのに等しい。若者同士の会話ならばそれも許されるだろうが、理に先走るこの類の表現は、見る人からすれば、「こざかしさ」以外のなにものでもない。

実は私自身、昔は「こざかしさ」が服を着て歩いているような若者であった。いわゆる秀才によく見られる嫌なタイプだ。が、ある二つの出来事がその愚かしさを私に実感させてくれた。

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2006/05/18

Ouagadougou?

“Ouagadougou”? 日本語で表記すると「ワガドゥグー」となる。この文字を見ただけでピンとくる日本人は相当のツウである。

Aaa 種明かしをしよう。アフリカの国、ブルキナファソの首都である。11世紀に成立したワガドグ王国の都として築かれた都市だが、そもそも「ワガドゥグー」という地名の由来は、行商人を意味する「ワガ」と村を意味する「ドゥグー」の合成語とする説がどうも一般的だ。昔からこの地は交易の拠点であったようだ。

なんでまた突然、そんな話を? 

3日ほど前、そのワガドゥグーに向かう知人からメールがパリから届いたからだ。地図からも分かるように、ブルキナファソはサハラ砂漠の南に位置する。とにかく内陸部だ。コートジボアールのアビジャンからモシ鉄道で北東に向かう方法もあるが、やはり空路がはやい。はやいとは言っても、パリからたっぷり5時間はかかる。そのワガドゥグーで、昨日と今日の2日間、アフリカ開発銀行の年次総会が開かれている。日本政府代表も昨日、演説を行った。さきほどの知人も代表団の一員である。この種の年次総会では、開発銀行側が参加者のためにアクセスや宿泊情報をウェブサイトに掲示するが、さすがにワガドゥグー総会に関しては、いつもより詳細にアクセス情報をアップしている。

* * *

ワガドゥグーと並び、聞きなれない地名の筆頭格は、“Timbuktu” (ティンブクトゥ)であろう。今度はパソコンオタクならピンとくるはずだ。そう、インターネットが普及する前に登場し、話題となった遠隔操作ソフトである。たとえ相手が地球の裏側にいようと、あたかも椅子を並べ1台のパソコンをシェアしているかのような共同作業が可能になる。80年代後半、このソフトのデモンストレーションを初めて見て、興奮した記憶がある。

Aa_2 実はこのティンブクトゥ、奇しくもブルキナファソの隣国、マリ共和国にある古都の名前だ。ティンブクトゥはその近づきがたさのため、英語では以前から、「エキゾチックで遠い土地」とか「地の果て」を意味する隠喩として使われていた。それに着目したのが、ソフト開発会社のNetopia社というわけだ。秀逸なネーミングだが、同社がもし、ティンブクトゥではなく、ワガドゥグーに着目していたら、と想像をめぐらすのも楽しい。

2006/05/16

Penthouse

“PENTHOUSE”が雑誌とは限らないことを知ったのは、そのときだ。「そのとき」といっても30年近く前のことだから、「昔話」の部類に属する。そんな昔話を今頃になってブログに書こうと思ったのは、Abe Rosenthalの訃報に接したからだ。

* * *

Aaa_1 当時NYT本社で研修を受けていた僕をAbe(エイブ)が自宅に招待してくれたのだ。たしか1977年のはずなので、エグゼクティブ・エディターに就任した翌年。飛ぶ鳥を落とす勢いのあった時期だし、エイブが帝王として君臨していた頃だ。

その自宅が、アッパー・イースト・サイドのpenthouse(最上階に作られる特別仕様の高級住戸)だったのだ。アッパー・イースト・サイドと言えば、19世紀末、上流階級の人が好んだボザール様式の豪邸が残り、付近の高級アパートの玄関にはドアマンが立ち、手入れされた庭は四季折々の花で色づく。そこに住む。それだけでステイタスなのである。

彼のペントハウスは、セントラルパークの東南の角から五番街を北に数ブロック歩いたところにあった。アッパー・イースト・サイドの中でも、セントラルパークに面した最高の立地である。ペントハウスだから当たり前だが、最上階の1フロアすべてが自宅である。少し照明を落とした廊下を歩くと、そう、ゆうに50畳はあろうかと思われるダイニングルームがある。壁面を飾っているのはエイブご自慢の篠田桃紅の書だ。

* * *

Aa_1 が、なによりも驚いたのは、招待客の顔ぶれの豪華さだ。全員の顔を覚えているわけではないが、僕の左に座ったのが、ウォルター・クロンカイト、右側はバーバラ・ウォルターズ。クロンカイトは1968年から81年までCBS Evening Newsのアンカーを務めたジャーナリズム界の伝説的スーパースター、かたやウォルターズは当時ABCの看板キャスター。そんな二人にはさまれての食事など喉を通ったものではない。むろん会話の内容などまったく覚えていない。完全にあがっていたのであろう。

食事のあとはダンス…。盆踊りの経験しかない日本男児には恐怖でしかないが、そんな窮地から僕を救ってくれたのは、エイブの(当時の)カミさんだ。おじけづく僕に近づき、“Shall we dance?” と言うやいなや僕の手をとった。カミさんといっても体格はプロレスラー並み。あとは揺れ動く大木にしがみつくセミのごとく…。そんな光景をエイブがうれしそうに見ていたのを覚えている。

文字通り「めくるめく」ダンスから解放された僕は、からだのほてりを冷ますため、グラス片手にベランダに出た。ベランダといってもパーティができるほどの広さだ。眼下には漆黒のセントラルパークの森が広がり、その向こうにそびえる摩天楼の明かりがなぜか心地よかった。

プロフィール

異文化間コミュニケーション/マーケティングのコンサルティング会社、株式会社エイコンの代表取締役吉崎弘高のブログです。

2006年11 月

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